コラムもくじ
■季節や時期に合わせた『万葉集』や『大伴家持』にちなんだコラムを連載しています。
若き日の家持さん・・・大伴家持の茶目っ気のある性格を表した歌のおはなし![]()
万葉集最後の歌について・・・大伴家持が因幡国庁で詠んだ歌のおはなし
かぎろひのきらめき・・・美しく珍しい自然現象に関するうたのおはなし
家持の見た因幡国・・・現代に残された数多くの貴重な古墳・遺跡のおはなし
夏バテにはやっぱり鰻・・・奈良時代でも鰻が夏バテによいとされていた様です
即興歌に込められた長意吉麻呂の悪知恵?・・・流行したすごろくのおはなし
万葉川柳・・・万葉の時代に詠まれたちょっとしゃれた恋にまつわる川柳のおはなし
万葉の結婚あれこれ・・・別居があたりまえ?!万葉の時代の結婚のおはなし
端午の節句のおはなし・・・万葉の時代にも端午の節会という行事が行なわれていました
万葉びとと桜・・・今も昔も変わらず日本人が大好きな桜のおはなし
節分のはなし・・・昔はおおみそかに行なっていた、豆まきのおはなし
若き日の家持さん 
「史生尾張少咋を教え喩す歌一首并せて短歌」のうち短歌一首
右は五月十五日に守大伴宿禰家持作れり(巻一八・四一〇八)
『紅色は華やかだけれども、すぐ色あせるものだ。地味な橡色に染めた衣にどうして及ぶことがあるのか』
大伴家持は、越中の国で浮気をしている史生尾張少咋を諭すために長歌一首、反歌三首を詠んでいます。 (反歌とは長歌のあとに続けて詠まれる短歌のこと)一人の部下に対して歌四首も詠んでいることから史生尾張少咋のことを心配したことが伺えます。
ところがその直後、史生尾張少咋の浮気が奥さんにばれてしまったようです。
先の妻の夫の君の喚使を待たずして自ら来りし時に作れる歌一首
同じ月十七日に守大伴宿禰家持作れり(巻一八・四一一〇)
『左夫流児が、神を祀るように大事に仕えていた少咋のもとに、鈴もつけていない駅馬でやって来て里中大騒ぎになった。』
左夫流児とは尾張少咋の浮気相手です。そのことを知った「先の妻」、つまり奥さんが鈴をつけていない駅馬を跳ばして越中にまでやって来て、里中に轟くような大喧嘩になった、という歌ですが、
これは家持が尾張少咋をからかって詠んだ歌といえます。
以前、 ウナギの歌を紹介しましたが、若かりし頃の家持は、こういった茶目っ気(悪く言えば
悪戯心? )たっぷりの歌も詠んでいました。 やはり今も昔も、人は若い頃にヤンチャをしたがる
ものかもしれません。
万葉集最後の歌について
「トシ」という古語は、稲の稔りを言い、稲の稔りの一周期が一年であるところから、
「年」の意味になったとされています。雪は「豊年の貢(ほうねんのみつぎ)」・
「五穀の精(ごこくのせい)」・「稲の花」といわれ、新年に雪が降るのは、
豊年の端兆(ずいちょう)でした。
(巻一七・三九二五 葛井諸会)
『新しい年の初めに、豊作の年の兆しを見せるらしい。雪がふりつもるのは。』
これは天平18年(西暦746年)の正月、聖武天皇の御前で行われた宴の席で詠まれた歌です。
この宴には家持の同席していました。たのみにしていた聖武天皇・橘諸兄が健在で、しかもまだ
29歳だった家持にとっても、この歌は心はずむものだったかもしれません。
それから13年後の天平宝字3年(西暦759年)の正月、家持は因幡国庁において万葉集最後の
歌を詠みます。
(巻二十・四五一六 大伴家持)
『新しい年の始めの、初春の今日降る雪のように、良いことが積み重なりますように。』
この時の家持をとりまく状況はたいへん苦しいものでした。橘奈良麻呂のクーデター計画の失敗で
親友や友人を失いながら、自分はそれに関わらなかったために、なんとか生き残ることができました。
しかし生き残ったために抱え込んだ悲しみや苦しみは筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。
そのような中、どういった気持ちで家持は因幡国に赴任したのか?また、最後の歌にはどのような
意味があるのか?いろいろな疑問が浮かんできますが、この歌の解釈は人それぞれで正解はないとも
言えます。つまり、皆さんの出した答えが皆さんにとっての正解なのです。
家持の気持ちになって、最後の歌を一度詠ってみてください。
※因幡万葉歴史館では家持の最後の歌にちなんで、旧正月に近い2月10日(日)に「万葉茶会」が
開催されます いけばなと庭園を鑑賞しながらいただく抹茶は格別ですので、是非ご来館ください。
かぎろひのきらめき
(巻一・四八 柿本人麻呂)
持統6年(692)冬旧暦の11月17日頃、軽皇子(後の文武天皇)が11歳の時、
皇室の狩り場だった阿騎野(あきの)を訪れた時に、
同行していた柿本人麻呂が詠んだ大変有名な歌です。
夜明けのひととき、東の野のかなた一面が紫色や茜色に輝き、表現できないほど美しい色に染まる 一瞬が 「かぎろひ」です。厳冬のよく晴れた、日の出一時間ほど前に現れる最初の陽光で、なかなか見る事のできない自然現象です。
ところでこの歌の万葉仮名表記は 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡 です。
この仮名表記を上のように読んだのは、賀茂真淵という17世紀末〜18世紀半ばの国学者です。
問題なのは、この歌がたいへん有名にもかかわらず、難訓の歌であるといくことです。そのため研究者によって読みが全く異なっています。たとえば「東」を「しののめ」と読んだり「月西渡」を「月西わたる」といった具合です。でもやはり真淵の読みが一番力強く、自然の壮大さを感じさせてくれます。
万葉集には難訓の歌が色々ありますが、どう読むかも考えながら見ていくのも一つの楽しみ方だと思います。
奈良の大宇陀町では「かぎろひを観る会」が毎年この時期に開かれています。めったに見る事はできないそうですが、それでも多くの方が参加されています。これぞ万葉のロマンであり、『万葉集』の醍醐味です。
家持の見た因幡国
何を見たのかについてお話しします。
古代の鳥取市国府町は、白鳳期より仏教文化が栄え、国府町内には4つのお寺が
建立されたことが分かっています。
また天平期には国分寺、国分尼寺も建てられます。
「玉鉾等ヶ坪廃寺」からは鴟尾片が出土し、復元したところ、高さ1.4 メートルにもなることが分かりました。 また現在「岡益廃寺」と呼ばれる寺院跡の横には大きな石のモニュメント「岡益の石堂」もあります。高さ約2メートルの柱は、ギリシアのパルテ ノン神殿に見られるエンタシスという胴の膨らみをもち、その上にのる枡状石には忍冬唐草文が刻まれていて、シルクロードを伝わって日本に 入ってきた文化の影響を受けていることが分かります。 朝鮮半島では似たものがありますが、日本では類例がないことから、 朝鮮との直接的な文化交流のもとに造られた可能性もあります。 また、その石堂から谷を挟んだ向かいの山には、変形八角形という特 殊な形と彩色壁画をもつ梶山古墳があります。
家持も折にふれ、それらの寺にお参りしたり、石堂・古墳などを見て廻 ったと思われますが、それらに対してどのような感情を抱いたのでしょう か?残念ながら記録に残っていないので、推測するしかありませんが、 大きな関心を持ったのではないかと思います。
皆さんも鳥取市に来られた折には、それらを見ていただき、家持の心 情に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(10月12日(金)〜14日(日)には、梶山古墳の彩色壁画の一般公開があります)
夏バテにはやっぱり鰻
『石麻呂どのに、私は申し上げます。夏痩せによいと言われておりますぞ。ウナギをとってお食べ下さい。』
(巻十六・三八五三)
『痩せておりましても生きていられればよいのですから、やはりまたウナギをとうろうとして川に流されますな。』
(巻十六・三八五四)
実は吉田連老(よしだのむらじおゆ)(字は石麻呂)という人をからかった大伴家持の歌です。
この石麻呂という人物、年老いて体は痩せているのに、その飲み食いする量はたいへんなもの
だった様で、その様を見て家持がこんな歌を詠んだのです。
もちろん家持は年輩の石麻呂のことを尊敬している事が前提にあるからこそ出来ることで、
そうでなければケンカになってしまいます。
巻16にはこういったおもしろい嗤笑歌がたくさんあります。
しかしこの二首に対する石麻呂の返歌は『万葉集』に掲載されていません。
一体なぜでしょう?石麻呂が大人の対応をしたのか、はたまた、とんでもない歌が
返ってきた為に家持が載せなかったのかは、分かりません。
『万葉集』はただ沈黙したままです。
ただ、天皇家に代々仕えてきた武門であることを誇りにし、家名を大切にしていた
家持の違った一面が垣間見える歌でもあります。
当時の双六熱は凄かったようで、西暦689年(持統期)に禁止令が出されたくらいでした。
それでも結局、双六は中断されることなく続けられていたようです。
また、この歌からは、奈良時代には既にウナギが体に良いと知られていた事が分かります。
「土用の丑の日」は江戸時代に平賀源内が考えたとされていますが、それより1,000年以上も
前のことです。7月30日は「土用の丑の日」でしたが、皆さんも夏バテしないように、
ウナギを食べましたか?なんとかこの暑さをしのいで、涼しい秋を待ちたいものですね。
即興歌に込められた長意吉麻呂の悪知恵?
『一や二の目だけではない。五や六や三、それに四まであるんだ。双六のサイコロは。』
長意吉麻呂 (巻十六・三八二七)
この歌を歌った長意吉麻呂は即興歌の達人で、このような歌を数首残しています。
「サイコロの目が1から6まであるのは当たり前やんか!」と思わずツッコミを入れたくなります。
もちろんこの時代でも同じ形のサイコロが使われていました。では何故、長意吉麻呂はこんな歌を
詠んで驚いてみせたのでしょう?
実はこの時代、双六が博打として貴族の間では流行していました。双六といっても、現在のような
サイコロの目に従って進み、ゴールするというようなゲームではなく、相手の陣地に出た目の数だけ
駒を進めていくバックギャモンに似たものでした。
当時の双六熱は凄かったようで、西暦689年(持統期)に禁止令が出されたくらいでした。
それでも結局、双六は中断されることなく続けられていたようです。
長意吉麻呂はまさに持統期に活躍した歌人であり、彼も双六賭博をしていたことが
歌からもうかがえます。
禁止令が出された後も「だから何?」とばかりに双六を続けていたのかもしれませんね。
でも禁止令を直接笑うような嗤笑歌(ししょうか)は当然作ることはできません。
禁止令を批判することになります。
彼がわざとサイコロの目に驚き、感嘆した歌を作ったのには、そういった背景があったからかもしれませんね。
万葉川柳
『近頃の私の恋にかける努力を書き集めて功績として申し出たら、五位の位を預けるくらいです。』
本当にこの人が恋に対してそれだけの努力をしたのかどうか・・・は、分かりませんが、きっと同席していた人々からは喝采を得たことでしょう。
この歌で注目して頂きたいのは「五位の冠」ということばです。なぜ「五位」なのか。
四位や六位でもいいではないか、というと決してそうではありません。これは、当時の官人のおかれていた実情が反映されています。
まず五位という位ですが、これは西暦701年制定の大宝律令において定められた官位の1つです。
この令制では五位と六位の間では、身分上大きな開きがありました。
五位以上には、
(1)蔭位(おんい)の制 ・・・父もしくは祖父が五位以上の有力者なら、 その子・孫は朝廷に初出仕する際、自動的に一定の官位を与えられる。
(2)五位以上の者には田地が支給される。
(3)八虐(大罪)以外の刑罰が軽減される。
など特権が色々ありましたが、六位以下にはこのような特権はありませんでした。五位と六位の差はこれほど大きなものだったのです。当然五位以上になれる人は限られていました。
この歌人はそれを踏まえたうえで、「恋の努力が功績になるなら、私は五位の位さえもらえるくらいだ」と詠んだのです。
なんだか最近流行りのなんとか川柳みたいですね。
万葉の結婚あれこれ
最近の日本の結婚事情もジューンブライドに影響されるカップルは多いと思います。
この『ジューンブライド』の由来は、6月の英語名ジューン:Juneがローマ神話の
女神ジュノー:Junoの名前であることと関係があるのです。
ジュノーという女神はローマ神話の最頂点に立つジュピターの奥さんで、「結婚」と「家族」の守り神として尊敬され、それ故に6月は伝統的に結婚に適した月と言われるようです。
では、万葉の時代の結婚とはどんなものだったのでしょうか?
●万葉時代の結婚スタイルは「通い婚」
万葉びとの婚姻形態は、夫婦別居の「通い婚」が一般的でした。それも妻のもとに夫が通う「妻訪い婚(つまどいこん)・よばい婚」でした。夫は妻のもとへ夜訪れて、朝帰ります。生まれた子どももその母方で育てられます。いずれ、ある期間を経て、同居に移る場合があります。
少なくとも一定期間は別居・妻訪い制であり、一夫多妻制の名残もあって、女性はつらい「待つ身」を強いられていたのです。万葉集の中には、そういった夜逢えない嘆きを詠む歌が多く残されています。
■三方沙彌(みかたのさみ)、園臣生羽(そののおみいくは)の娘を娶きて、
未だ幾(いくばく)の時を経ずして 病に臥して作る歌
束ねるとずるずるとほどけ、束ねないと長いあなたの髪は、このところ会わないが櫛でかきあげているであろうか?
三方沙彌 (巻二・一二三)
人は誰も、もうすっかり長くなった、束ねなさいと言うけれど、あなたがご覧になった髪はたとえ乱れてもかまいません。
娘子 (巻二・一二四)
結婚後まもない夫が病の床に臥していても、看病することはおろか、見舞うこともできなかったようです。妻訪い婚の時代でなければ生まれない嘆きの歌です。
端午の節句のおはなし
季節の変わり目である端午の日に病気や災厄を避けるため「端午の節会」として
厄除けの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人達にはヨモギなどの薬草を配り、
また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も
行われていました。
そして、万葉集には天智天皇7年(678)の蒲生野(滋賀県蒲生野)における薬狩の後宴の歌が記されています
■天皇の蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
紫野を行ったり、入ることを止められている野を行ったりして、あなたが袖を振っていらっしゃるのを
野守はみつけていないでしょうか?見つけられるといけませんわ
(巻一・二十)
■皇太子の答へませる御歌紫のように映えて美しいあなたに対して憎らしく思うなら、人妻であるものを何で恋いしようか。
(巻一・二一)
古来行われていた宮廷での端午の行事も、やがて鎌倉時代の武家政治へと移り変わるにつれだんだんと廃れていき、かわりに武士のあいだで尚武(=武をたっとぶという意味)と菖蒲をかけて端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになりました。万葉びとと桜
(歌も大ヒットしますしね)そういえば、桜見物だけは「花見」と言います。
梅や菊、そのほかの花を観賞するとき「花見」とは言いません。
「花といえば桜!!」という考えが日本人の中に根付いている証なのでしょうか。
万葉の時代にも、もちろん『桜』はありました。万葉集には「花見」という名詞は見当たらないようですが、「花見の歌」ともよめる歌が残されています。さらに、万葉の時代の奈良の都では既に夜桜を楽しむ風もあったようです。
そもそも『さくら』という語、サは田神・穀霊の名、クラは神座としての意義からくるものだそうで、万葉びとは秋の稔りの兆として桜を眺めたそうです。養老律令では「鎮花の祭り」が定められていました。秋の稔りの先ぶれである花が散るのを鎮める意味があったようです。
このように、農耕と結びついた行事が昔の「花見」だったのですが、現代の花見はただ純粋に桜の花そのものを楽しんでいます。なかには、花より団子を楽しむ人もいそうですが・・・。
節分のはなし
節分の夜に、蓬莱(ほうらい)の鬼がやってきて、小歌を歌って女を口説きました。
女は妻になると嘘をついて、隠れ笠、隠れ蓑(みの)に、打ち出の小づちを持って
「鬼は外、福は内」といって豆をまきます。すると鬼が逃げるという話が狂言にあります。
●節分の豆まきはいつから?
節分に豆をまくのは、奈良時代に宮中で行われていた年中行事の一つとして始まったといわれ、大晦日(おおみそか)に行われました。
もともとは中国から伝わった風習で「おにやらい」などと呼ばれ、神社などの追儺(ついな)まつりとして、現在も行われています。
舎人(とねり)・従者)たちが鬼になって、親王たちが弓矢で追うという行事です。室町時代に衰えましたが、しだいに庶民にも広がり、節分の豆まきとして残っていったようです。
節分は季節の移り変わるとき、立春・立夏・立秋・立冬の前日を言います。特に立春の前日をいい、夕暮れに柊(ひいらぎ)の板に、鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打ち豆と称して炒(い)った大豆をまきます。

